前回の記事では、「療育って、なに?」というところから始まった私たちが、自分で療育先を探し、ひとつの事業所につながるまでのことを書きました。
最初は、本当に軽い気持ちだったんです。
「つま先立ち、なおらんかなぁ」
何かリハビリのようなことをしてもらえないかな。
この子に合った関わり方を、教えてもらえないかな。
そんな気持ちで始まった療育でした。
でも、今振り返ると、あのとき療育につながったことは、ぱんだだけでなく、私にとっても、とても大きなことでした。
家庭の中だけでぱんだを育てていたら、私はどこかで限界を迎えていたかもしれません。
それくらい、あの頃は必死でした。
あの頃の記憶が、あまりない
不思議なのですが、あの頃のことを思い出そうとしても、記憶があまりありません。
それくらい、毎日がせわしなかったんだと思います。
「あれもしなきゃ」
「これもしなきゃ」
そう思っているうちに、もうお昼。
もう、こじかが帰ってくる時間。
お風呂に入れなきゃ。
夕飯を作らなきゃ。
ぱんだには食物アレルギーがあったので、食べるものにも、ずっと神経を使っていました。
命に関わることだから、そこは気を抜けませんでした。
夫も体調を崩していました。
不調が出る場所が変わり、その原因を調べるために、いろいろな病院へ通っていました。
この年には、義父のがんも見つかりました。
今考えると、そりゃ余裕ないよなぁ、と思います。
でも当時は、「大変だな」と感じながらも、とにかく目の前のことを回すしかありませんでした。
そして外では、できるだけ「しっかりしたお母さん」でいようとしていました。
一緒に考えてもらう場所でも、力が入っていた
人と話すことも、だんだん苦手になっていました。
動悸がすることもありました。
特に苦手だったのが、担当者会議です。
本当は、ぱんだのことを一緒に考えてもらうための場所。
でも、当時の私には、
「あなたは、自分の子どものことをどれだけ理解していますか?」
と、試されているように感じられました。
ちゃんと答えなきゃ。
ちゃんと説明しなきゃ。
母親なんだから、分かっていなきゃ。
ずっと、そんなふうに力が入っていました。
相談員さんとのやり取りで、「あれ?」と思うこともありました。
聞いていた利用時間と違っていたうえに、その日から利用が始まることも、知らされていませんでした。
そんな中で、「今日来なかったみたいだけど、どうした?」と電話がかかってきたことがありました。
知らされてなかったことに戸惑いながらも、
「やっぱり、私がちゃんと把握しておかなきゃ」
と思ってしまう。
頼りたい気持ちはあるのに、なかなか安心して任せられず、また自分に力が入ってしまいました。
たぶん私は、ずっと張り詰めていたんだと思います。
あとから当時の手帳を読み返すと、こじかも夜、寝る前に不安になって泣いていたようです。
家族みんな、それぞれに余裕がなかったのかもしれません。
外に出ると、「すみません」が増えていた
ぱんだは、ぱっと見ただけでは、困りごとがあるようには見えません。
だからこそ、私は周りの目が怖かったんです。
ぱんだのことが恥ずかしかったわけではありません。
怖かったのは、「躾のできていない親だと思われること」でした。
外に出ると、ぱんだはとにかく忙しい。
あっちも気になる。
こっちも気になる。
次はあれ。
今度はこれ。
視覚優位のぱんだ。
目に入るもの全部に心が動いて、刺激の多い場所では、なかなか落ち着けませんでした。
そして、何より難しかったのが、「終わること」でした。
ひとつ終わっても、次がある。
次が終わっても、その次がある。
ぱんだの中では、まだまだ続いているんです。
こちらは、そろそろ限界。
このままだと疲れ果てて、最後には親子でいっぱいいっぱいになってしまう。
だから、そうなる前に帰りたい。
でも、帰れない。
「もう終わりだよ」
「帰るよ」
何度伝えても、なかなか切り替えられませんでした。
私もイライラしてくる。
周りの目が気になって、さらに焦る。
でも、叱りたくなかったんです。
自分のイライラを、ぱんだにぶつけたくなかった。
それなのに、ほかにどうしたらいいのか、分かりませんでした。
リュックにつけた札が、私の気持ちも支えてくれた
その頃、私はぱんだのリュックに、ある札をつけました。
「この子には障がいがあります」
と、見た人に分かるものです。
裏側には、ぱんだの特徴と、私の携帯番号を書いて入れていました。
迷子になったときのため、という理由もありました。
でも今考えると、あの札は、
「この子の行動には、理由があります」
と、私の代わりに伝えてくれるものでもあったのかもしれません。
つけてから、ほんの少しだけ、周りの目を気にしなくなりました。
何かあって「ごめんなさい」と言ったときにも、事情を分かってもらえたら、少し受け止めてもらえるような気がしたんです。
周りが変わったというより、私の気持ちが、少し楽になったんだと思います。
療育先で出会った、ひとりのお母さん
通い始めた療育先には、ぱんだと同じくらいの年の男の子がいました。
その子のお母さんを見て、私は「こんなお母さんになりたい」と思いました。
とにかく明るくて、子どもの気持ちを大切にする人でした。
子どもがまだ終われないなら、
「満足するまで、もうちょっと待ってみようか」
と考えられる。
もちろん、何でも好きにさせるわけではありません。
注意しなければいけないことは、そのときにちゃんと伝える。
でも、キチキチしていないんです。
「まあ、どうにかなるさ」
そんな余白があって、私には、とても自由に見えました。
あの頃の私は、義父母のこと、体調を崩している夫のこと、こじかのこと、ぱんだのこと……。
いろいろなことを気にかけながら、身動きが取れなくなっていたように思います。
周りの目も、とにかく気にしていました。
だから、そのお母さんの自由さが、とても眩しかったんです。
公園に来たのに、遊具で遊ばなくてもいい
その親子と、一緒に公園へ行ったことがあります。
公園に行ったら、遊具で遊ぶ。
私は、なんとなくそう思っていました。
でも、ぱんだは違いました。
感覚の問題もあって遊具では遊ばず、そのまま公園を出て、違うところへ行ってしまう。
結局、公園に来たはずなのに、みんなで散歩になりました。
以前の私なら、
「ごめんね、せっかく公園に来たのに」
と、申し訳なくなっていたと思います。
そのときも、きっと「ごめんねー」と言っていたはずです。
でも、その親子は、
「いいよ、いいよー」
と笑ってくれました。
「じゃあ、散歩しよー」
「あっちで遊んでみる?」
いろいろな楽しみ方を、一緒に考えてくれました。
ぱんだを無理にみんなに合わせるのではなく、その日は、みんながぱんだに合わせてくれた。
しかも、一緒に楽しんでくれたんです。
あれは、本当に嬉しかった。
そのお母さんには上のお子さんもいて、その子にも発達面での困りごとがあったそうです。
知識も経験もあって、子どもとの関わり方から、私もたくさん学びました。
「公園に来たんだから、遊具で遊ばなきゃ」
そうじゃなくてもいい。
この子がこうしたいなら、時間があるときくらい、付き合ってみよう。
なるべく、そんな時間を作ってみよう。
少しずつ、私の中の「こうあるべき」が変わっていきました。
その親子といるとき、私は「私」でいられた
そして、そのお母さんは、とにかく話を聞いてくれました。
家のことも。
夫のことも。
子どものことも。
たぶん、ぜーんぶ知っていたと思います。
嫌なことがあったら、愚痴る。
たくさん喋る。
そして、最後には笑っている。
嫌だったことまで、一緒に笑いに変えてくれる人でした。
その親子と過ごす時間は、「お母さん」「妻」「嫁」という役割から、少し離れられる時間だったんだと思います。
一人の私として、話を聞いてもらえる。
それが、とっても楽でした。
あの頃の私は、そのお母さんに、何度も何度も救われていました。
「かわいいね」が、愛しさを何倍にもしてくれた
療育につながってよかったことは、それだけではありません。
先生たちが、ぱんだのことを、本当にたくさん可愛がってくれました。
「かわいい」
「かわいいね」
言葉だけではなく、愛情を持って接してくれていることが、日々の関わりから伝わってきました。
これって、私には、ものすごく大きなことでした。
周りに「この子、かわいいね」と言ってくれる人がいると、もっとかわいく感じられるんです。
もともと大好きなわが子の愛しさが、何倍にもなる。
もちろん、困ることはありました。
ぱんだには、噛みつく行為や、衝動的に動いてしまうこともありました。
大変なことは、大変。
困ることは、困る。
でも、少しずつ、
「ここは困るんだけど……でも、かわいい」
と思えるようになっていきました。
先生たちに可愛がってもらっているぱんだを見るのが、嬉しかった。
こんなに可愛がってもらえるぱんだを、私は自慢に思っていました。
家庭の中だけでは、抱えきれなかったと思う
これは、今だから言えることです。
私は、家庭の中だけでぱんだを育てていたら、抱えきれなかったと思います。
全部を自分だけで背負っていたら、追い詰められて、ぱんだを傷つけるような関わりに近づいてしまった可能性も、あったのではないかと思います。
どうにかしてあげたい気持ちは、ありました。
でも、やり方が分からなかったんです。
噛みつく。
衝動的に動く。
終われない。
伝えたつもりでも、また同じことが起きる。
特性を知らなければ、
「なんで分からないの?」
「さっき言ったでしょ」
となっていたと思います。
注意して、また注意して、もっと強く叱ってしまう。
ぱんだは落ち込んで、私も自己嫌悪する。
そんな毎日になっていたかもしれません。
ほかのやり方を知らなかったからこそ、一緒に考えてくれる人が必要でした。
私も一緒に、ぱんだのことを学んでいた
私が療育で得たものの中で、いちばん大きかったのは、ぱんだへの対応の仕方を学べたことだと思います。
この行動には、どんな理由があるんだろう。
この子には、どう伝えたら分かりやすいんだろう。
切り替えられないときは、どうしたらいいんだろう。
先生たちが、一緒に考えてくれました。
相談したら受け止めてくれて、アドバイスもくれました。
私は少しずつ、
「この子には、どうしたら伝わるんだろう」
と考えられるようになりました。
ぱんだだけが、療育を受けていたんじゃない。
私も一緒に、ぱんだのことを学んでいたんだと思います。
あの頃の私に、伝えたいこと
今の私が、あの頃の自分に会えたとしても、
「もっと力を抜いていいよ」
とは、たぶん言いません。
だって、あの頃の私は、本当に全力で頑張っていました。
必死に調べたことも。
病院で聞いたことも。
療育先を探したことも。
私は、全部やってよかったと思っています。
夫からは当時、
「もっと自分のやりたいようにやっていいよ」
と言われたことがありました。
その頃の私には、その言葉を受け取る余裕すらなかったのかもしれません。
今になって考えると、周りのことばかり考えて、自分をいつも後回しにしている私を見るのが、夫も辛かったのかな、と思います。
自分のことも大切にしたい。
そんな気持ちがあっても、当時は、そこまで手が回りませんでした。
だから、あの頃の私に何か伝えるなら、ただ、
「よく頑張ってるよ」
って、言ってあげたいです。
一緒に考えてくれる人がいる、という安心
子どもの発達が、少し気になっている。
どう接したらいいのか、分からない。
かわいいはずなのに、毎日叱ってばかり。
もし今、そんなふうに悩んでいるお母さんがいたら、私は、まず相談してみてほしいと思います。
私がつながった療育先には、子どものことを真剣に考えてくれる先生がいました。
話しているうちに、涙が出てしまうこともありました。
そんな私の話を、先生は真剣に聞いて、応えてくれました。
ぱんだの困りごとだけでなく、私の気持ちも受け止めてもらえたことが、心強かったです。
「じゃあ、この子にはどうしたらいいかな」
と、一緒に考えてくれる人がいる。
そのことに、私は何度も支えられました。
お母さん自身も、もう十分大変かもしれません。
そして子どもも、うまく伝えられない困りごとを抱えているかもしれません。
これから集団の中で過ごすうちに、初めて分かる困りごともあるかもしれません。
だから、少しでも「気になる」があるなら、その気持ちを、まず誰かに話してみてほしいです。
子どもだけが頑張るのではなく、親も一緒に、その子のことを知っていく。
「なんでできないの?」が、
「こうしたら、できるのかも」
に変わっていく。
私たちは、そうやって少しずつ、親子で笑って過ごせる時間を増やしてきました。
療育は、困りごとを相談する場所であり、ぱんだの「かわいい」を一緒に見つけてもらえる場所でもありました。
私は、療育につながることができて、本当によかった。
ぱんだのためにも。
そして、あの頃、必死でぱんだを育てていた、私自身のためにも。



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